はじめに
母なるものは、不思議な存在です。
私たちにとって最初の温かさを与えてくれる相手であり、最初に「世界そのもの」として現れる存在。けれども同時に、どこか怖さを伴った何かでもある。──昔話や神話を読んでいると、母をめぐるイメージにはこの両面が必ずついてくることに気づきます。
ギリシャ神話のデメテルは、娘を奪われた悲しみのあまり大地を不毛にし、人々を飢えさせました。インドのカーリー女神は、首から人間の頭蓋骨の数珠をかけ、舌を真っ赤に染めて踊ります。日本神話のイザナミは、夫イザナギとともに国を生み出した創造の女神でしたが、死後は黄泉の国の女王となり、夫を呑み込もうと追いかける存在に変わりました。
別々の文化の、別々の女神の話です。けれどユング派の心理学者たちは、こうしたイメージを並べてみたときに、そこにひとつの共通した構造があることに気づきました。生命を生み出し育てる母性と、すべてを呑み込み無に還す母性。この両極の力を併せ持つ、人類普遍の元型としての「母」──これがユングの言うグレートマザー(太母、Great Mother)です。
この記事では、神話や宗教、民間伝承に現れる例を中心にこの元型を見ていきます。日本の昔話や現代の物語にも、同じテーマが繰り返し顔を出してきます。
グレートマザーとは何か
グレートマザーは、ユング派の元型のなかでもとりわけ古い層に属するイメージです。
人類の祖先たちが意識を持ち始めたとき、最初に出会った絶対的な他者は母でした。生まれ落ちる場所、最初の食料の供給源、最初の温もり、そして最初の恐怖。母は文字通り、世界そのものだったのです。
意識がまだ未分化だった先史時代の人類にとって、自然は大地そのものであり、大地は母であり、母は神でもありました。世界各地に残る旧石器時代のヴィーナス像──豊満な乳房と腹を持つ女性像──は、この原初の母性崇拝の名残と考えられています。
ユングの弟子エーリッヒ・ノイマンは『グレート・マザー』(1955年)という本のなかで、この元型を体系的に整理しました。彼によれば、母性元型には「保持する」性質と「変容させる」性質という二つの軸があり、それぞれに肯定面と否定面がある。育み守る慈愛の母、すべてを呑み込み破壊する恐ろしい母、創造的な変容を促す母、人を惑わせ狂わせる母──これら四つの相が、ひとつの元型のなかに共存しているというのがノイマンの見立てです。
少し複雑なので、本記事ではこれをシンプルに、「包み込む母性」と「呑み込む母性」という二つの極で見ていきましょう。グレートマザーの最大の特徴は、この二つが別々の元型ではなく、ひとつの元型の表裏である、という点にあります。
包み込む母性──デメテル、イシス、観音、マリア
肯定的な母性の側面は、世界中の神話で似た姿で現れます。
ギリシャ神話のデメテルは、農業と豊穣を司る女神です。麦の穂を象徴とし、人々に農耕を教えた存在として、生命を育むことそのものを体現しています。彼女の物語の中心にあるのは、娘ペルセポネーへの深い愛と、その愛が試される苦しみです。
エジプト神話のイシスは、夫オシリスが弟セトに殺されてバラバラにされたとき、その断片を集めて彼を蘇らせ、息子ホルスを父の仇から守りながら育てました。奪われたものを取り戻し、命を再生し、子を守り抜く──こういう物語は、母性のもっとも能動的な側面を描いています。
仏教の世界では、観音菩薩が慈悲の象徴として崇敬されてきました。本来、観音はインド由来の菩薩で性別を超えた存在ですが、中国・日本に伝わる過程で女性的な相が前面に出るようになります。白衣観音、慈母観音、子安観音──子を守り、母として現れる姿が広まっていきました。日々の祈りのなかで人々が求めてきた「すべてを包み込んで赦してくれる存在」のイメージが、この菩薩像に結晶しているのですね。
キリスト教の聖母マリアも同じ系譜に属します。神学的にはマリアは神ではなく、神を生んだ人間の女性とされますが、民衆の信仰のなかで彼女は事実上の母なる神として崇められてきました。「悲しみの聖母(マーテル・ドロローサ)」と呼ばれる、子の死を腕に抱いて嘆くマリアのイメージは、母性のもっとも痛ましい一面を捉えています。
これらの女神たちが共通して持つのは、見守り、育み、子を守り、苦しみを引き受け、死者すらも蘇らせようとする力です。
呑み込む母性──カーリー、ティアマト、バーバ・ヤーガ、イザナミ
しかし、母性元型にはまったく別の顔もあります。
インドのカーリー女神は、ヒンドゥー教において破壊と死を司る女神です。黒い肌で、四本の腕に剣と切り取られた首を握り、人間の頭蓋骨の数珠を首にかけ、舌を真っ赤に出して踊る──なかなか強烈な姿ですね。
けれどカーリーは単に恐ろしい邪神ではなく、信者たちにとっては「母」でもある女神です。彼女は破壊によって時代を終わらせ、新しい生を可能にする。命を奪う力と命を与える力が、同じ女神のなかに同居しているのです。
メソポタミア神話のティアマトは、原初の塩水の女神。すべての神々の母にして、最終的に若い神マルドゥクに殺される存在です。彼女の死体から天と地が作られた、と神話は語ります。世界そのものが「殺された母」から生まれた、という構造を持つ神話なのですね。原初の母は、若い世代に殺されることによって世界を成立させる──このパターンは、母性元型の暗い側面を象徴的に表しています。
スラヴの民話に登場するバーバ・ヤーガは、鶏の脚で立つ小屋に住み、人間の骨で囲った庭を持つ恐ろしい老婆です。子供を捕まえて食べる魔女として描かれることが多い一方、英雄を試して助ける役割も担います。母性の暗い側面が、もっとも生々しい形で現れた民間伝承の例と言えるでしょう。
そして日本のイザナミ。古事記では、イザナギとともに国生みをした創造の女神でした。けれども火の神を産んだ際の火傷が原因で死に、黄泉の国の女王となります。夫イザナギが妻を取り戻しに黄泉を訪れたとき、彼が見たのは蛆のたかった腐乱した姿のイザナミでした。怒ったイザナミは黄泉の軍勢を率いて夫を追いかけ、二人は永遠に決別する──ここでは、産み出す母が、そのまま死を支配し、生者を呑み込もうとする存在に転じています。
ここでひとつ書いておきたいのは、こうした「呑み込む母性」のイメージが、現実の女性や母親への偏見を意味するわけではない、ということです。グレートマザーの両義性は、母という存在に対して人類が古来から抱いてきた根源的な感情のパターンを、象徴的に表現したものです。すべてを与えてくれる存在は、すべてを奪う力も持ちうる──この両極性は、母という関係そのものに本質的に組み込まれているもので、特定の個人の評価とは別の話なのです。
両義性をひとつの物語に──デメテルとペルセポネー
包み込む母性と呑み込む母性。この両極が、ひとつの物語のなかで同時に立ち現れる例があります。ギリシャのデメテルとペルセポネーの神話です。
娘ペルセポネーが冥界の王ハデスにさらわれたとき、母デメテルは深い嘆きに沈み、農耕の神としての職務を放棄しました。大地は冷え、作物は実らなくなり、人々は飢え死に始めます。最終的にゼウスが仲裁に入り、ペルセポネーは年の三分の一を冥界で、残りを母のもとで過ごすという取り決めが成立しました。彼女が地上に戻ると春が訪れ、冥界に降りると冬が来る──四季の起源を語る神話としても重要なお話です。
ここで、デメテルが見せる二つの顔に注目してみましょう。娘を愛する保護的な母としての顔と、娘を奪われた悲しみと怒りで世界を不毛にする破壊的な母としての顔。これらは別の神々ではなく、同じデメテルの二つの相なのです。
母性の愛が深ければ深いほど、その愛が損なわれたときの破壊力も大きい。包み込む母性と呑み込む母性は、別々の二人の女神なのではなく、同じ元型の連続的な振幅と言えます。
この神話は古代エレウシスの密儀(ミステリー)の中心テーマでもあり、ユングは『コレー──乙女の女神について』のなかで、母と娘の関係を通じて女性の心が経験する変容のプロセスとして読み解いています。
日本のグレートマザー──河合隼雄の昔話研究
河合隼雄は『昔話と日本人の心』(1982年)のなかで、日本の昔話に現れる母性的存在を集合的無意識の表現として読み解きました。
彼が特に注目したのが「山姥」です。山に住み、旅人を惑わせ食らう女性的存在。一見すると単純に恐ろしい存在ですが、河合は山姥が時として宝物を授けたり、英雄を助けたりする場面に注目します。そしてこれを、「呑み込む母性」と「包み込む母性」が未分化のまま同居している、日本固有の母性像と分析しました。
西洋ではバーバ・ヤーガに近い存在ですが、日本の山姥はより両義性が強い。恐ろしさと豊穣が、同じ存在のなかに綯い交ぜになっているのですね。
また河合は『母性社会日本の病理』(1976年)のなかで、ユニークな議論を展開しています。日本社会全体が、母性原理によって動いている、というのです。
父性原理が「切る・分ける・選ぶ・断つ」の機能を担うのに対し、母性原理は「包む・育てる・受け入れる・呑み込む」機能を担う。日本社会の合議制、恥の文化、年功序列、内と外の区別といった特徴は、母性原理の支配下で発達したものだ、というのが彼の見立てです。母性社会の長所は包容力の高さですが、短所は個人の自立や境界の確立が困難になる点にある。「呑み込む母」が文化全体の影として機能している、という鋭い指摘ですね。
雪女、鶴女房、人魚といった日本の女性的妖怪たちも、この両義性のなかに位置づけられます。彼女たちは美しく男性を魅了しますが、約束を破ると姿を消すか、死をもたらすか、あるいは男性のほうが彼女たちのもとに引き込まれて還らなくなる。包み込む魅力と呑み込む力が、ひとつの存在に綯い交ぜになっているわけです。
個人の心におけるグレートマザー
ここまで神話と民間伝承の話をしてきましたが、こうした普遍的なイメージは、私たち一人一人の心のなかにも生きています。
ユング派は、現実の母親と、心のなかの「母なるもの」(グレートマザー元型)を区別しました。子供は最初の数年間、現実の母親のなかに、グレートマザー元型のすべての側面を投影しながら関係を築いていきます。優しいときの母は包み込む母性として、機嫌の悪いときの母は呑み込む母性として体験される。現実の母親は、自分自身であると同時に、子供の心のなかでは神話的な存在でもあるのですね。
ある程度成長すると、子供は徐々に、現実の母親と心のなかの母性元型とを分離させていきます。これがうまくいかないと、現実の女性たちすべてに「神話的な母」を投影し続けてしまう「母コンプレックス」と呼ばれる状態が生じることがあります。すべての女性に過剰な期待をするか、すべての女性を恐れるか、あるいは特定の女性に対して現実的でない理想化と幻滅を繰り返すか──これらは現実の他者を見るのではなく、心のなかのグレートマザーのイメージを目の前の人に重ねている状態です。
ユング心理学において個性化のプロセスの重要な節目のひとつは、この母性元型からの「分離」です。包み込まれる存在から、自立した個へ。このプロセスは生涯にわたって続き、何度も同じテーマが姿を変えて回帰してきます。
現代作品に見るグレートマザー
こうした古典的な構造は、現代の物語のなかにも繰り返し現れています。
『千と千尋の神隠し』の湯婆婆と銭婆は、グレートマザー元型を二人の人物に分割した、近年のもっとも明快な表現のひとつでしょう。湯婆婆は油屋という大きな空間を支配し、千尋の名前を奪い、息子の坊を異常に過保護に閉じ込めて育てる──これは「呑み込む母性」の典型像です。
一方、双子の姉妹である銭婆は、田舎の小さな家で千尋を温かく迎え、お守りを与えて送り出す──こちらは「包み込む母性」の側面です。同じ顔をした双子という設定が、両者が同じ元型の表裏であることを視覚的に表現しています。
『新世紀エヴァンゲリオン』では、母性のテーマが作品全体を貫いています。エヴァンゲリオン初号機には主人公シンジの母・碇ユイの魂が宿っており、シンジは戦いのなかで「機械の母のなかに入り込む」という構造になっている。リリスは人類の根源的な母であり、人類補完計画は最終的に「すべての魂が母なるものに還る」という構図を持っています。綾波レイはユイから生み出された存在として、シンジに対して母であり姉であり恋人でもある複雑な位置を占めます。
シンジが最終的に直面しなければならないのは、母なるものに飲み込まれることなく、しかし母なるものとの絆を失うのでもなく、自分自身として立つことができるか、という問いです。これはまさに、グレートマザーからの個性化というテーマそのものですね。
物語が母なるものを描き続けるのは、それが私たち一人一人が一度は通り、そして生涯にわたって反復し続ける根源的な体験だからなのでしょう。
おわりに
グレートマザーは、もっとも古く、もっとも深く、そしてもっとも両義的な元型のひとつです。生命の源であり、死の領域でもある。すべてを与え、すべてを呑み込む。
私たちがふとしたときに感じる、母なるものへの慕情、あるいは恐れ、あるいは抗いたい衝動──そのどれもが、この太古の元型のさざなみなのかもしれません。神話のなかで人類が描き続けてきた「母なる女神」たちは、特定の存在を指すだけではなく、私たち自身の心の奥にある、生命の根源的な経験を象徴的に語った存在なのです。


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