トリックスターとは?──秩序を揺さぶる「いたずら者」の元型

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はじめに

『ペルソナ5』をプレイしたことのある方なら、主人公のコードネームが「ジョーカー」であり、ベルベットルームの管理者イゴールから繰り返し「トリックスター」と呼ばれる場面を覚えているかもしれません。タロットの「愚者」を体現するこの少年は、社会の歪みを暴くために怪盗となり、固まりきった大人たちの心を盗む。秩序を破ることが救済になる──そんな逆説的な役割が、ゲームのテーマそのものとして織り込まれています。

このキャラクター造形はアトラスの独創というより、人類が古来から語り継いできたある神話的人物像、ユング心理学が「トリックスター元型」と呼ぶものの忠実な再現です。北欧神話のロキ、ギリシャ神話のヘルメス、中国の孫悟空、日本のスサノオ、北米先住民のコヨーテとワタリガラス、シェイクスピアのパック、バットマンのジョーカー、マーベルのロキ、西遊記の孫悟空。文化と時代を越えて、なぜ人類は同じような「いたずら者」の物語を繰り返し作ってきたのか。ユングと河合隼雄はそこに、人間の心の深いところで働いている元型のひとつを見ました。

本記事では、トリックスターという概念がどこから生まれ、どんな心理的機能を担い、現代の物語のなかにどう生き続けているのかを、順に追っていきます。話の出発点は、この奇妙な人物像が学問の世界にはっきりと姿を現した瞬間──ある人類学者が一冊の本を世に問うた、1956年です。

「トリックスター」という言葉の出自

「トリックスター」を学術的な概念として最初に確立したのは、アメリカの文化人類学者ポール・ラディン(1883-1959)でした。彼が1956年に刊行した『The Trickster: A Study in American Indian Mythology』は、ウィスコンシン州のウィネバゴ族(現ホーチャンク族)に伝わるワクジュンカガという奇妙な人物の物語群を採集し、その構造を分析した書物です。

ワクジュンカガは荒唐無稽な存在です。男性なのに女性に変身して別の男性と結婚し、子供まで産む。自分の腸を食べてしまう。右手と左手が勝手に喧嘩を始めて、自分自身を傷つける。動物に騙されたかと思えば騙し返し、神のような偉業を成し遂げたかと思えば馬鹿げた失敗を重ねる──。

ラディンはこのワクジュンカガを、未開社会から文明社会への発展の途上にある「初期の人間意識」の象徴として読み解きました。そして同書には、神話学者カール・ケレーニイと心理学者カール・グスタフ・ユングが解説のエッセイを寄せています。ケレーニイはこのインディアン神話とギリシャ神話のヘルメス、さらに中世ヨーロッパの宮廷道化師や悪漢小説(ピカレスク・ロマン)の主人公であるピカロを横断的に比較しました。一方ユングは「トリックスター像の心理学について」と題したエッセイで、これを集合的無意識から立ち現れる元型のひとつとして位置づけたのです。

日本では1974年、晶文社からこの三人の論考をまとめた『トリックスター』が、皆河宗一・高橋英夫・河合隼雄の共訳、文化人類学者・山口昌男の編集解説によって刊行されました。河合隼雄がユングのエッセイを訳した縁から、彼自身の後の著作『影の現象学』(講談社、1987年)でもトリックスター論が深く展開されることになります。

ラディンとケレーニイの貢献は主として文化人類学と神話学の側からのものでしたが、もっとも独創的でその後の影響が大きかったのはユングの解釈でした。彼はこの奇妙でつかみどころのない人物像のなかに、人間の心がそもそも持っている構造を見たのです。

ユングの捉え方──未発達な意識と文化英雄の同居

ユングはトリックスターの粗野で原始的な振る舞いを、人類のより初期の未発達な意識段階の反映と見ました。動物のレベルにかぎりなく近く、自分の身体の各部分を自分自身として統合できておらず、衝動のまま動き回り、しばしば自滅する。これは個人の発達でいえば乳幼児期に近く、文化の発達でいえば自我が未分化な段階に対応します。

しかしユングのトリックスター論の核心は、そこで終わらないところにあります。トリックスターは単に未熟な存在ではなく、「救世主の先駆者」「半神半獣」とも呼ばれる、両義的な存在として描かれているのです。ワクジュンカガは物語の終盤で人々に文化や火や食物をもたらす「文化英雄」となり、コヨーテやワタリガラスもまた、北米先住民の神話のなかで世界を創造し、人類に重要なものを与える役割を担います。プロメテウスがゼウスから火を盗んで人類に与えたように、トリックスターは秩序を破ることでこそ、新しい何かを生み出すのです。

この一見矛盾した二面性こそ、ユングがトリックスターを元型と見た理由でした。元型はもともと両義的(アンビバレント)な性質を持ち、グレートマザーが包み込む母であると同時に呑み込む母でもあるように、トリックスターも創造者であると同時に破壊者であり、文化英雄であると同時に道化師なのです。

ユングはまた、トリックスターを「シャドウの集合的版」とも捉えました。個人にとってのシャドウが、本人が認めたくない自分の暗い側面であるとすれば、トリックスターは社会全体が抑圧してきた集合的な影、すなわち「文明社会が表向きには認められない、しかし完全には捨てきれない無秩序な力」の象徴なのです。

理論的な枠組みはここまでにして、実際にトリックスターがどんな顔をして世界の神話に現れてきたのかを見ていきましょう。元型の議論が説得力を持つかどうかは、結局のところ、文化と時代を越えて似た人物像がどれほど集まるかにかかっています。

世界の神話に現れるトリックスター

トリックスター元型の特徴的な点は、地理的にも歴史的にも広い範囲に同型の人物が現れることです。これがユングが集合的無意識からの普遍的なパターンと見た根拠でもあります。

北欧神話のロキは最もよく知られた例でしょう。神々の一員でありながら巨人族の血を引き、トールの槌を盗まれる原因を作っては自ら取り戻し、女装して結婚式に潜入し、自ら牝馬に変身して八本足の名馬スレイプニルを産む。最終的にはバルドルの死を引き起こし、ラグナロクで神々の世界を終わらせる側に回ります。創造と破壊の両極を体現する、ほぼ完璧なトリックスターです。マーベル映画版のロキが「Mischief(いたずら)の神」と自称しながら、シリーズを通して兄ソーや世界そのものを揺るがし続けるのは、神話の構造をかなり忠実になぞった造形です。

ギリシャ神話ではヘルメスがその代表です。生まれたその日にアポロンの牛を盗み、嘘で言い逃れ、しかし同時に神々の伝令としての役割を担い、商人と旅人と泥棒の守護神でもあります。ケレーニイは『トリックスター』所収の論文で、このヘルメスの境界横断性──昼と夜、生と死、上界と下界、所有と窃盗のあいだを自由に行き来する性質──こそトリックスターの本質だと論じました。プロメテウスもまた、神から火を盗んで人類に与えたという点で典型的なトリックスター=文化英雄です。

中国の『西遊記』に登場する孫悟空は、東アジアにおけるトリックスターの代表格です。石から生まれた彼は天宮で大暴れし、如来によって五行山に封じられ、後に三蔵法師の旅に同行してその守護者となります。秩序の破壊者から文化の伝達者へという物語の構造は、ウィネバゴのワクジュンカガが愚者から人間へと成長していくプロットと不思議なほど共鳴します。

アフリカではアナンシ(蜘蛛)、北米先住民ではコヨーテ、ワタリガラス、ナナボーゾといった存在がそれぞれの地域の中心的なトリックスターとなっています。シェイクスピアの『夏の夜の夢』に登場する妖精パック、中世ヨーロッパの宮廷道化師、トランプのジョーカーカード、タロットの「愚者」も、すべてこの系譜に連なります。

これだけ多様な文化を眺めてくると、当然「日本の神話にもトリックスターはいたのか」という疑問が浮かんでくるはずです。実は日本のトリックスター像をユング派の文脈ではっきり論じたのは河合隼雄でした。彼が選んだのは、誰もが名前は知っているのに正体を捉えにくい、あの神でした。

河合隼雄が見たスサノオ──日本のトリックスター

日本においてもっとも明確なトリックスターを誰に見るかは諸説ありますが、河合隼雄は『影の現象学』のなかで、スサノオをその代表として論じました。

『古事記』『日本書紀』に描かれるスサノオは、極めて両義的な神です。海原を治めよと命じられても従わず、母神イザナミを慕って泣き暴れ、姉アマテラスのもとに上って高天原で乱暴狼藉を働きます。田の畔を壊し、神聖な機織り屋に皮を剥いだ馬を投げ込んでアマテラスを岩戸隠れに追い込む。日本の神話世界全体を闇に閉ざす元凶となるのです。

ところが追放されて出雲に降りたスサノオは、まったく別の顔を見せ始めます。八岐大蛇を退治し、クシナダヒメを救い、出雲王朝の祖先となる。荒ぶる悪神が、文化英雄に転じるのです。河合隼雄はこの転換に、トリックスターの本質的な構造を見ました。秩序を破壊する者が、新しい秩序の創設者となる。アマテラスの完璧な「日の世界」が一度トリックスターによって闇に投げ込まれ、そこから再び光が出てくるという神話のリズムこそ、停滞した秩序が更新される心理的プロセスのモデルなのだと。

河合隼雄はさらに、日本神話の「中空構造」という独自の視点も提示しています。日本の神話的世界はアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三柱を中心に構成されているように見えますが、ツクヨミはほとんど物語に登場せず、中心が空虚なまま残されている。秩序の太陽神と無秩序の暴風神という両極が、中央の空白を介して共存している。この構造は西洋神話のような明確な善悪二元論とは異なり、トリックスター的なものを排除せず内側に抱え込む日本的な精神風土を示している、というのが彼の議論です。

新海誠監督の『天気の子』が陽菜(陽=アマテラス的)と帆高(風=スサノオ的)の二人を中心に進み、最終的に主人公が世界の秩序を引き受けない選択をするのも、こうした日本神話のトリックスター構造の現代的な反復として読むことができます。

ところで、ここまで読み進めてきて「これってシャドウとどう違うのか」と感じた方もいるかもしれません。たしかに「抑圧された暗い側面」と聞くと、両者の輪郭は重なって見えます。しかしユング心理学のなかで、シャドウとトリックスターはそれぞれ別の役割を担っており、混同するとかえって理解が浅くなります。次にこの違いを整理しておきましょう。

シャドウとトリックスターの関係

すでに触れましたが、トリックスターはしばしばシャドウとの関係で論じられます。両者の違いを明確にしておくことは、ユング心理学を体系として理解するうえで重要です。

シャドウは個人の元型です。意識から抑圧された個人的な影、本人が「自分はそんな人間ではない」と否認している部分を指します。一方トリックスターは、より集合的な層から立ち現れる元型で、社会全体や文化全体が抑圧してきた無秩序な力を象徴します。

ただし、両者は完全に独立しているわけではありません。河合隼雄は『影の現象学』のなかで、シャドウを引き受けるプロセスのなかでトリックスター的な要素が活性化することを指摘しています。たとえば真面目で完璧主義な人が自分の「ふざけたい」「逸脱したい」という抑圧された欲求を意識化したとき、その人の内面でトリックスターが目覚める。固まった自我に風穴を開けるのは、しばしばこの内なるトリックスターなのです。

『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジに対して、シャドウとして機能する登場人物がカヲルだとすれば、トリックスター的に機能するのはアスカや加持リョウジでしょう。シンジの硬直した内面に、それぞれ別の角度から揺さぶりをかけ、固まりかけた秩序を解きほぐす役割を担っています。

シンジの例がそうであるように、トリックスターは固まりすぎた人格に風穴を開けるために現れます。この機能は、ユング心理学の最終目標である「個性化」のプロセスにおいて、決定的な意味を持っています。なぜ私たちの心はわざわざ厄介なトリックスターを呼び寄せるのか、その理由がここで見えてきます。

個性化におけるトリックスターの役割

ユング心理学における人生の最終目標は「個性化」、つまり意識と無意識を統合し、本来の自己(セルフ)を実現することです。このプロセスのなかで、トリックスターは固有の機能を果たします。

人は自我を確立する過程で、社会的に望ましいペルソナを身にまとい、「こうあるべき」という秩序を内面化していきます。しかしこの秩序は時として硬直化し、心の他の部分を抑圧する檻となります。中年期に多くの人が経験する停滞感や虚しさ──いわゆる中年クライシス──は、こうした硬直した自我構造が限界に達したサインです。

このとき夢や日常の象徴的な出来事のなかで、トリックスター元型が活性化することがあります。突然の浮気衝動、これまでの自分らしくない衝動的な転職、規則を破りたいという強い欲求──こうした体験は、表面的には危険な逸脱ですが、ユング的な見方をすれば、固まった秩序を打ち破って新しい人格構造を作り直すための、無意識からのメッセージである可能性があるのです。

河合隼雄は『影の現象学』のなかで、人が創造的に生きようとするかぎり自分の内なるトリックスターとの接触を失わないことが必要であり、王や英雄への同一化を急ぐあまり道化性を失った人格はかえって弾力性を欠いて危険な状態に陥る、と述べています。完璧であろうとしすぎることは、それ自体がひとつの病なのです。

こうした心理学的な働きは、抽象的な理論にとどまるものではありません。私たちは現代のフィクションのなかで、トリックスター元型に動かされる主人公や脇役に何度も出会っており、しばしば彼らに強く惹きつけられます。なぜ秩序を破る登場人物がこれほど愛されるのか、いくつか具体的に見ていきましょう。

現代の物語に現れるトリックスター

トリックスター元型は、現代のフィクションのなかでも繰り返し中心的なキャラクターを生み出してきました。

すでに触れた『ペルソナ5』のジョーカーは、最も明示的な例です。怪盗となって社会の歪みを「盗み」、固まった大人たちの心を変えていく彼は、ピカレスク・ロマンとジュブナイル小説を融合させた物語構造そのものをトリックスター元型のうえに乗せています。タロットの「愚者」とトランプの「ジョーカー」が同じ系譜にあるのも、両者がともに「番外」「規則の外」を象徴する存在だからです。

クリストファー・ノーラン版『ダークナイト』のジョーカーは、現代のトリックスターの最も鋭利な造形のひとつでしょう。彼は金やイデオロギーや権力を求めず、ただ既存の秩序が偽物にすぎないことを暴くために動きます。バットマンが象徴する英雄的秩序の対極にいるカオスの体現者として、彼は秩序を「燃やす」役割を引き受ける。これはトリックスターが集合的シャドウであるというユングの洞察を、現代都市の文脈で先鋭化させた物語と読めます。

『ハリー・ポッター』のウィーズリー双子は、より明るく愛されるトリックスターです。ホグワーツの規則を組織的に破り続け、ピーブズや「ふざけた地図」と並んで、魔法学校という閉じた秩序のなかにいたずらと笑いを持ち込む。彼らの存在はハリーの陰鬱な戦いに息継ぎを与え、最終的にはヴォルデモートとの戦いにおいて重要な役割を担います。

『ONE PIECE』のルフィは海賊──法外の存在──としてのトリックスター性を引き受けたキャラクターです。世界政府の秩序を笑いとばし、各島の固まった構造を「破壊」しながら通り過ぎる。ただし彼の場合は単純な英雄物語の主人公でもあるため、トリックスター元型と英雄元型の混合形と捉えるのが正確でしょう。

スター・ウォーズのハン・ソロは、ジェダイの精神的秩序の対極にいる「ならず者(スカウンドレル)」として登場しながら、ルークの英雄的旅に決定的な瞬間に介入し、結果的に銀河の救済に貢献します。これはトリックスターが英雄物語のなかで補助者として機能する古典的なパターンです。

『千と千尋の神隠し』のカオナシは、より暗く謎めいたトリックスターです。湯屋の秩序を金で買収して呑み込み、しかし最後には銭婆のもとで穏やかな存在に変容する。秩序を一度破壊することで主人公の成長を促す触媒として機能している点では、トリックスター元型の重要な側面を担っています。

これらの作品が世界中で愛されているという事実は、トリックスター元型が現代人の心にも依然として強く訴えかけることを示しています。固まった秩序のなかで生きる私たちは、どこかで秩序を笑い、揺さぶってくれる存在を必要としているのです。

そしてこの欲求はあまりにも根深いため、人類はフィクションのなかにトリックスターを置くだけでは飽き足らず、現実の社会制度のなかにもその居場所をしっかりと組み込んできました。物語の外でも、トリックスターは私たちの暮らしを支えてきたのです。

道化、カーニヴァル、悪漢小説──社会のなかのトリックスター

トリックスターは神話のなかだけにいるのではありません。歴史的な社会制度のなかにも、その役割を担う仕組みが組み込まれてきました。

中世ヨーロッパの宮廷道化師は、王の前で唯一「真実」を口にすることを許された存在でした。シェイクスピア『リア王』の道化が王に「あなたは愚かだ」と告げられるのは、彼が秩序の外にいるからこそでした。ロシアにも「聖なる愚者(ユロージヴィ)」という伝統があり、街でわざと奇行をしながら権力者を批判する役割を担っていました。日本の「ばさら」や戦国期のかぶき者、江戸の落語家もこの系譜に連なります。

カーニヴァルや祭りもまた、トリックスター的な機能を社会に組み込む装置でした。バフチンが論じたように、中世の謝肉祭では一日だけ社会階層が逆転し、秩序が公式に「ひっくり返される」ことが許されていました。日本の祭りで「無礼講」が許されるのも、社会の秩序を一度緩めることでかえって長期的な秩序を維持するという、トリックスター原理の制度化です。

文学史的には、ケレーニイが指摘したように、近代小説の黎明期に書かれた悪漢小説(ピカレスク・ロマン)の主人公ピカロが、トリックスターの直接的な後継者です。スペインの『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』に始まり、セルバンテスの『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンサ、フィールディングの『トム・ジョーンズ』に至る系譜は、世の秩序を斜めから笑いとばす主人公が読者に愛され続けた歴史です。村上春樹作品の主人公の多くも、社会秩序から半歩離れた「軽さ」を持つピカロ的人物として読むことができ、現代日本文学にトリックスター的感性を持ち込んだ作家として位置づけられます。

道化師から祭礼、悪漢小説に至るまで、これだけ多様な仕掛けを社会に組み込んできたのは裏返せば、トリックスターを失うことが人間にとって相当に危険であることを、人類が経験のなかで学んできたからでしょう。では実際にトリックスターを締め出してしまうと、個人や社会には何が起こるのか。最後にその影について考えておきます。

トリックスター性を失うことの危険

ユングと河合隼雄が口を揃えて警告したのは、トリックスターを完全に抑圧してしまうことの危険性でした。

完璧な秩序、完璧な真面目さ、完璧な正しさを追求する人格は、外側からは立派に見えます。しかしそこには弾力性がない。予期しない出来事、矛盾、自分の愚かさに直面したときに、その秩序は脆くも崩れます。河合隼雄が『影の現象学』で「王や英雄への同一化を急ぐあまり道化性を失ってしまった個人は、いかに弾力性に欠け、危険性に満ちたものになるか」と書いたのは、まさにこの問題への警告でした。

歴史的にも、自国を絶対的な「秩序」「正義」「文明」と見なした集団が、トリックスター的なものを排除した結果、内側に抱えきれない暴力を爆発させる例は数多く見られます。20世紀の全体主義体制が芸術や笑いを徹底的に統制しようとしたのは、彼らがトリックスターの破壊力を本能的に恐れていたからでしょう。

逆に、トリックスターに過度に同一化することの危険もあります。秩序を破ることだけが目的化したとき、その人は単なる破壊者になり、創造には向かいません。ユングはこの状態を、自我が無意識に呑み込まれた「インフレーション」の一種として警戒しました。トリックスターは秩序の対極にいる存在であり、対極があってこそ意味を持つ存在なのです。

健全なあり方は、自我のなかにトリックスターの居場所を確保しつつ、秩序との対話関係を保つことです。完璧主義に陥りそうなとき、自分を笑える余地を残しておく。すべてを「正しさ」で塗り固めようとするとき、ふざけてみる勇気を失わない。河合隼雄が説いた「人生のしなやかさ」は、内なるトリックスターと共生する技術なのです。

こうしてトリックスター元型を一周してきてみると、最初に触れたペルソナ5のジョーカーが、なぜあれほど多くのプレイヤーの心を掴んだのかが、もう少し深く見えてくるはずです。

おわりに

ペルソナ5の主人公がジョーカーであることは、偶然ではありません。トリックスター元型は、停滞した社会、固まった秩序、抑圧された個人の心を内側から揺さぶり、新しい何かを生み出すための、人類が古くから知っていたメカニズムだからです。

ロキ、ヘルメス、孫悟空、スサノオ、コヨーテ、ジョーカー──時代と地域を越えてこれほど似た人物像が繰り返し現れることは、ユングが集合的無意識から立ち現れる元型と呼んだものの強力な証拠です。そして私たちが彼らの物語にいまなお惹かれるのは、私たち自身の内面にもトリックスターが住んでおり、固まった自我に揺さぶりをかけてほしいと密かに願っているからかもしれません。

完璧であろうとしすぎて疲れたとき、すべてを正しくこなそうとして窒息しそうなとき、思い出してみてください。あなたの内側にも、規則を笑い、秩序をひっくり返し、しかしその先に新しい風景を見せてくれる「いたずら者」が住んでいることを。トリックスターと付き合う技術は、しなやかに生きるための心理学の中心にあるテーマなのです。

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